『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読む

我々が言語ゲームに参加し、言葉によって人を動かしたり、動かされたりという「呪術的」とすら呼びうる力を得るのは、単に事物や事態を非人称的に記述するだけでなく、自らを「私」と名乗りそこに参加するからである。「私」と名乗るとは、魂を持つ者と成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。付随するあらゆる帰結とともに自らの言葉と行為を慈しみ、それらの親となる用意があるということである。
この「用意」によって人は担保とすべき「私」を生みだし「私」と成り、そうした「私」の存在を担保として言葉を持つのである。そうした担保が存在するからこそ、すなわち「私」が在るからこそ、他人は「私」の言葉に答え、「私」は他の「私」の言葉に答えるのである。そして「私」は「責任」を負いうる存在となる。こうした一切は「私」が譲りえない言葉としての魂を持つ限りにおいて成立することである。「私」はいかなる他者に対しても超越言明をする用意がある場合にのみ、譲りえない言葉としての魂を持つ。(中略)
言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめるからに他ならない。ウィトゲンシュタインはこう考えた』鬼界彰夫講談社現代新書)より


「言葉を拡げる」ということは「世界を広げる」ということ。「私の言葉」によって「私の思考可能性」は限定され、「世界」は「私の思考可能性」の内に位置づけられるしかない。ウィトゲンシュタイン「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」論理哲学論考5・6)と言ったのであり、さらに続く『論考』5・61で「思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。」とより具体的に述べている。「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」(『論考』5・62)ので、結果として「世界と生とはひとつである。」(『論考』5・621)のだ。


ウィトゲンシュタインはこう考えた?哲学的思考の全軌...