宮台真司『日本の難点』より抜粋

「いじめ」とは、人の「自由」な日常活動のベースになっている「尊厳」(他者の承認ん契機とする自己価値)を、回復不能なまでに傷つけることで、以前と同じ生活を送れないようにしてしまうことです。「尊厳」を破壊することで「自由」を奪う営みこそが、「いじめ」の正確な定義です。

重松清さんの『青い鳥』という短編集があります。最近映画になりました。主人公の先生は強度の吃音です。その先生が、子どもたちを「いじめ」から遠ざけるための、極めて大切なメッセージを語ります。「本気で話したことは本気で聞かなくちゃいけないんだ」という印象的なセリフです。

先生の本気が、生徒たちに「感染」していきます。人の「尊厳」を傷つけ、そのことで「自由」を奪ってしまうのが、なぜいけないことなのか。それは「理屈」ではありません。「社会の中で人が生きる」ということを支える前提です。なぜそんな前提があるのか、誰にも分かりません。

だから「ダメなものはダメ」なのです。「みんなが言うからダメ」とか「誰かをいじめれば君もいずれはいじめられる」などと説教するのはクダラナイ。「ダメなものはダメ」を伝えられるのは「感染」だけです。「感染」を引き起こせるのは何であるのかを、『青い鳥』はよく描いています。

心底スゴイと思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、初めて理屈ではなく気持ちが動くのです。「いじめたらいじめられる」なんていう理屈で説得できると思うのはバカげています。世の中、弱い者いじめだらけだし、それで得をしている大人がたくさんいるのですから。

そうじゃない。「いじめはしちゃいけないに決まってるだろ」と言う人がどれだけ「感染」を引き起こせるかです。スゴイ奴に接触し、「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」できるような機会を、どれだけ体験できるか。それだけが本質で、理屈は全て後からついてくるものです。

想像してほしい。利己的な奴が本当にスゴイ奴だなんてあり得るでしょうか。「感染」を引き起こせるでしょうか。あり得ない。周囲に「感染」を繰り広げる本当にスゴイ奴は、なぜか必ず利他的です。人間は、理由は分からないけれど、そういう人間にしか「感染」を起こさないのです。
宮台真司『日本の難点』幻冬舎新書より)