エッセイの執筆

A5サイズ無地〜一〇〇〇字詰め原稿用紙まで、何かを読んだり聞いたり話しあったりした際にはとにかく書かせる。基本的に添削はしない。他者へ伝えるための記述ではなく、自分自身の思考のための「書く」という行為である。書くことを手がかりにものごとを考え、自分と向き合う。

無題

 言葉は単なるコミュニケーションの手段・道具ではない。世界の地平を拡げるためには言葉を獲得することが重要である。言葉によって深く思考することの愉悦、現代文を学ぶことの面白さを伝えたい。
 現代文では「何をどう教えたらいいか」という決まった「型」というものはなく、アプローチがバラエティに富んだ科目であり、教師の力量が試される。それぞれの生徒にとって、自分自身が生きるリアルな現在に引きつけ、テキストに自分自身にとっての意味を見いだしながら読解していく。生徒の既成概念を揺さぶって疑問を抱かせ、批評精神の醸成を図りたい。
 教師の立場としては、誰のためにこの仕事をしているのかという原点に立ち返り、生徒たちのためにどれだけ愛情と情熱を注げるか。四〇名の生徒が教室にいても常にひとり一人をまなざして真摯に語りかけることを心がけている。そのようなライヴ感を大切にした授業の結果として、教師が語りかけること全てが完璧に伝わらなくとも、目の前の生徒に授業を通じて「何か」が伝わればいい。

『青猫』序

 私の情緒は、激情(パツシヨン)といふ範疇に屬しない。むしろそれはしづかな靈魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聽く横笛のひびきである。
 ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。
 およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼(いと)けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明くれば鷄(にはとり)の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。
 げにこの一つの情緒は、私の遠い氣質に屬してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも涙ぐましき横笛の音色をひびかす、いみじき横笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。
 かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼(つばさ)をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。
 されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。
      

 感覺的鬱憂性! それもまた私の遠い氣質に屬してゐる。それは春光の下に群生する櫻のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。かくて私の生活は官能的にも頽廢の薄暮をかなしむであらう。げに憂鬱なる、憂鬱なるそれはまた私の敍情詩の主題(てま)である。
 とはいへ私の最近の生活は、さうした感覺的のものであるよりはむしろより多く思索的の鬱憂性に傾いてゐる。(たとへば集中「意志と無明」の篇中に收められた詩篇の如きこの傾向に屬してゐる。これらの詩に見る宿命論的な暗鬱性は、全く思索生活の情緒に映じた殘像である。)かく私の詩の或るものは、おほむね感覺的鬱憂性に屬し、他の或るものは思索的鬱憂性に屬してゐる。しかしその何れにせよ、私の眞に傳へんとするリズムはそれでない。それらの「感覺的なもの」や「觀念的なもの」でない。それらのものは私の詩の衣裝にすぎない。私の詩の本質――よつて以てそれが詩作の動機となるところの、あの香氣の高い心悸の鼓動――は、ひとへにただあのいみじき横笛の音の魅惑にある。あの實在の世界への、故しらぬ思慕の哀傷にある。かく私は歌口を吹き、私のふしぎにして艶めかしき生命(いのち)をかなでようとするのである。
 されば私の詩風には、近代印象派の詩に見る如き官能の耽溺的靡亂がない。或いはまた重鬱にして息苦しき觀念詩派の壓迫がない。むしろ私の詩風はおだやかにして古風である。これは情想のすなほにして殉情のほまれ高きを尊ぶ。まさしく浪漫主義の正系を踏む情緒詩派の流れである。
      

「詩の目的は眞理や道徳を歌ふのでない。詩はただ詩のための表現である。」と言つたボドレエルの言葉ほど、藝術の本質を徹底的に觀破したものはない。我等は詩歌の要素と鑑賞とから、あらゆる不純の概念を驅逐するであらう。「醉」と「香氣」と、ただそれだけの芳烈な幸福を詩歌の「最後のもの」として決定する。もとより美の本質に關して言へば、どんな詭辯もそれの附加を許さない。
      

 かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神祕でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。
 生活の沼地に鳴く青鷺の聲であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。
      

 詩はいつも時流の先導に立つて、來るべき世紀の感情を最も鋭敏に觸知するものである。されば詩集の眞の評價は、すくなくとも出版後五年、十年を經て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即ち詩は、發表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遲きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時の淺薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。
 詩が常に俗衆を眼下に見くだし、時代の空氣に高く超越して、もつとも高潔清廉の氣風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。
      

 詩を作ること久しくして、益益詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。
                                  利根川に近き田舍の小都市にて  著者

『月に吠える』序 《漢字語句》

情調(じょうちょう)物事にふれて呼び起こされるさまざまな感情。
演繹(えんえき)一つの事柄から他の事柄へおしひろげて述べること。
顫動(せんどう)小刻みにふるえ動くこと。
流露(りゅうろ)心のうちにあるものが外にあらわれ出ること。
気韻(きいん)書画などの、気品のある趣。
気稟(きひん)生まれつきもっている気質。
稀薄(きはく)ある要素が乏しいこと。〔=希薄〕〈⇔濃厚〉
香味(こうみ)飲食物のかおりと味。
素樸(そぼく)仕組みや技術が単純で、あまり手が加えられていないこと。〔=素朴〕
芳純(ほうじゅん)酒などの香りが高く味のよいこと。〔=芳醇〕
特種(とくしゅ)特別な種類。
以心伝心(いしんでんしん)ことばによらなくても互いに気持ちが通じ合うこと。
不可思議千万(ふかしぎせんばん)この上もなく不思議に思える状態。
傍人(ぼうじん)そばにいる人。
智識(ちしき)ある物事について認識し、理解していること。また、その内容。〔=知識〕
戦慄(せんりつ)恐ろしさのために体がふるえること。
ぽつねん【〜と】ひとりでさびしそうにしているさま。〔=alone〕
霊智(れいち)はかりしれないほど深く、すぐれた知恵。〔=霊知〕
奇蹟(きせき)常識では考えられない不思議な出来事。〔=奇跡〕
霊妙(れいみょう)人知でははかり知れないほどすばらしいさま。
叡智(えいち)すぐれて深い知恵。高い知性。〔=英知〕
不具(ふぐ)体の一部に障害があること。《*差別用語として現在では使うべきでないとされている》
焦躁(しょうそう)いらだち、あせること。〔=焦燥〕